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2010年8月 9日 (月)

『二重被爆』

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山口彊(93)」さんという方を知っているだろうか?

この方の存在は、ある意味で驚きであったと考えられる。

「二重被爆」

この言葉あることすら知らなかった。

 

1945年8月6日広島、8月9日長崎に原子爆弾が投下された。

死者およそ30万人、現在でも23万人の人々が原爆後遺症に悩まされている。

その被爆者の中に、広島市と長崎市の両市で被爆(両市被爆ともいう)した方々がいる。

長崎市役所の資料によると、長崎市在住の「二重被爆者」は20名

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が2005年に、被爆者の体験記約10万点と死没者約1万7000人を調べ、原爆投下後2週間以内に両市に入り、残留放射能を浴びた「二重被爆者」は165人2度の原爆に直接遭遇した被爆者は9人いる事が確認したが、確定はされていない。

驚くべきことに、「二重被爆者」の存在は、歴史の中に埋もれたまま、独自の聞き取り調査もなされてこなかったことが判明した。

去年8月、国立広島原爆死没者追悼平和記念館で公開されている被爆体験記から「二重被爆者」の存在が報道された。

 

戦後60年で、「二重被爆」の実態が始めて明らかになりつつある。 

 

たった3日、75時間後に300km離れたところに新たに原爆を投下したのか、恐らく、家族に会いたいと自らの使命・仕事の為にと広島から長崎に命懸け向かった人々に再び原爆が落ちてきた。

山口彊さんもそんな数少ない一人だった。

1957年8月に手帳が交付されたとき、両方の被爆が記載されていたが、後に更新された時に広島市の記載が消去された。2009年1月になって追加記載を申請し、2009年3月下旬に、広島市の記載が復活し、2度の直接被爆が初めて認定された。二重被爆の認定を正式に受けたニュースが世界を駆け巡った。

山口さんは1945年当時、長崎三菱造船株式会社勤務の20代の技師として広島に3ヶ月出張の最終日前日、リトルボーイが投下され、爆心から3kmで直接被爆。左鼓膜が破れ左上半身に大やけどを負い、翌日その地獄から脱出しようと市中心部の列車に向かう途中で入市被爆しました。

長崎の自宅に戻って、翌日会社で課長に3日前の修羅場を報告していたその時、約3km離れた先にファットマン投下、長崎三菱造船の事務所で再び被爆する。

部屋が真っ白に。「広島からきのこ雲が追いかけてきたと思いましたよ」と山口さんは英紙インディペンデントの電話インタビューにその時の心境を語った。

13日には爆心地付近に親族を探しに行って入市被爆し、妻と子供も原爆の後遺症のため、そのとき生後6ヶ月だった次男が2005年に、2008年に妻がそれぞれ癌で亡くなった。

「もっと重い病気の人にすまないから」と表立って運動にも参加せず、ひっそりと暮らしてきた山口さんも、現在はがん闘病中していたが、残念ながら、今年の1月4日午前5時38分、胃がんのため長崎市の病院で亡くなった。密葬は近親者で済ませた。

終戦後、長崎三菱造船を解雇され、長崎に駐留していたアメリカ海兵隊第5大隊に通訳として従事する。その後、中学校の英語教員を7年間務めた後、三菱造船に復職し、定年までタンカーの設計を行った。

手帳が更新の時、長崎の被爆の記載だけになった点だけは納得がいかず、後世の人、世界の人にも悲惨さが分かるようにしたいと、広島分の記載追加をお願いしてきたそうです。

2006年、記録映画『二重被爆』に出演。この映画は山口の提案により海外上映が行われ、ニューヨークの国際連合本部とコロンビア大学で上映が行われた。上映にあわせて自ら渡米し、核兵器廃絶を訴えた。2007年には自らの証言を綴った『生かされている命』を出版した。

 

記録映画の中には直接・残留で二重被爆された方が7名出演なされている。

同僚でもお二方出演している。

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長崎事業所向いのフェリー乗り場で被爆、その瞬間「またか」と思い咄嗟に海に飛び込んだ。佐藤邦義さんも、2008年2月3日に享年87歳で亡くなられたことが、山口さんの中で、時間がないと思わせ不安にさせたるきっかけとなったそうです。

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もう一人、岩永章さんは長崎市在住(08年3月)だそうです。山口さん亡き後、原爆の恐ろしさ、二重被爆を知っていもらうための活動をされているそうです。

 

 

 

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2010年8月 6日 (金)

65年目のヒロシマへの原爆投下

 1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分。

 原子爆弾「リトルボーイ」がB-29(エノラ・ゲイ)によって投下されました。

 広島市の中心地にあった島病院上空580メートルで炸裂。

 爆心地付近では、人が影を残して消えた。人が真っ黒に焼け焦げ顔は愚か、性別まで分からなかった。3.5km離れた場所でも素肌に直接熱線を浴びた人は火傷を負った。

 爆風と衝撃波は凄まじく、爆心地付近の木造家屋はほとんど潰れ、人も潰された。でも、生きていた。そのまま火が広がるとともに、動けず焼け死んだ。人は飛ばされ、焼け焦げた木や家の残骸の立ち木に突き刺さったまま死んでいた。

 体中にガラスが刺さり、目も耳も聞こえぬ者もいた。体から内臓や眼球が飛び出ていても気づかず歩く者もいた。皮膚が地面につくほど垂れ下がった者もいた。でも、生きていた

 全身真っ黒焼け焦げ、暑いのだろうか 「水を~水を~」と呻きながらさまよう者もいた。でも、生きていた。水を飲ませてやるとそのまま事切れた。

 火から逃れる為に川や家の風呂に逃げる者いた。しかし、死んだ。水は煮えたぎる湯となり、熱さと怪我により動かない体でそのまま沈んでいった。

 追い討ちをかけたのは枕崎台風である。1945年9月17日に広島を襲い、死者・行方不明者合計は、2000名を越える大惨事となった。

 一瞬で数千人が消えた。一瞬で数万人が死んだ。年末までには十万人以上が死んだ。

 広島、長崎両市での存命被爆者(今年3月末現在、被爆者健康手帳所持者に限り)は22万7565人で前年より8004人減少平均年齢も昨年の75.92歳から76.7歳となり、0.78歳高齢化した。

 語り手はいなくなっていく。この1年間にヒロシマで死亡が確認された被爆者5501名。そして、死没者名簿を原爆慰霊碑に奉納し、広島の原爆死没者名簿は26万9450人となった。

 近年の研究や原爆症訴訟、黒い雨など、いまだに原爆症と認定されずにいた方々や、胎内被曝された方々への補償制度の円滑化の望み、行われつつあるのが救いである。

 核は何も生まない。唯、全てを消してしまう。命も絆も人の思いも壊す。

 「しょうがない」じゃない、妥協はするな。

 65年経っても忘れないでほしい。同情はいらない。ただ知ってほしい。感じてほしい。そして考えてほしい。ヘイワの本当の意味を、そしてミライイノチ

 

 黙祷

 

 

 

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