2010年4月 4日 (日)

00102 ~アルバート・ヘルピン~

】【今日の名言】【 

Photo  

「静かに暮しなさい。」

 

アルバート・ヘルピン(1809年?-1904年)アメリカ出身。
生涯眠ることが無かった人。

特殊な体調を気遣った母の教え。

 

アルバート・ヘルピンはとある片田舎で生まれた、いや、産まされた。

彼の母は、妊娠中に馬車事故に合い、そのショックで彼が生まれたのだ、早産であったが無事生まれ、母も事故による怪我はほとんどなかった。しかし、過ぎに異変はあらわれたという。何時までたっても赤ん坊は眠らないのだ、泣くことの少なく、ずっと笑っていたらしい。母は幾つかもの医者を回ったが、結局わからなかった。そして、母は我が子にある教えを説いた。出しゃばらず、静かにひっそりと暮らしなさいと言ったそうだ。その為、彼の存在が世に知られるようになったのは、彼が60歳を過ぎたあとであった。

当時のニューヨークタイムス取り上げられた時、彼の家には多くのマスコミが詰めかけた。彼の家は故郷を離れ、閑散とした都市の中を流れる川の畔に立っていた。家はとても小さく、彼一人が暮らしていた。その家にはあるべきものが無かった。「ベット」である。

彼を当時の医師や科学者が24時間体制で2週間程監視したが彼は眠らなかった。彼の食べているモノ関係しているのではと調べられたが食べていたのは、僅かなパンと近所雑貨店で買った魚の缶詰だけで、小食だった。

「眠らない男がいる。」とても話題になり、彼は有名となってしまった。しかし、同紙にこのような記事が載った。「眠らない男が寝た!」という記事だった。

ヘルピンが、荷物運びの馬車に乗り込んだ時、数秒間、目を開けたままフリーズしたのを、町の人が見ていたそうだ、その後、ヘルピンは何事もなく、馬車を動かした。彼は寝たのか? 真実は分からない。

時が経つにつれ、世の中は彼のことを忘れていった。

そして、1904年、ニューヨークタイムズにて「眠ることない男、95歳にて死去」の記事が載った。

彼自身の生涯は孤独だったが、彼を知る人によれば、ヘルピンはとても子供好きで、給料でお菓子やおもちゃを買い、子供与えたり、共に良く遊んでいたそうで、本当はとても明るい性格だったそうだ。

 

彼は、なぜ眠らなかったのか?いや、眠っていたのか?

近年の研究で、彼は、何らかのショックにより脳障害、または先天的な遺伝子異常が有り、眠らずとも身体が対応するようになった。正常に意識を保ちながら、眠っている時とまったく同じ脳波を出すのではないかと、または、身体的な休息、脳の休息を、各部位ずつ行うことが出来たのではと言われているが、本当のところはほとんどわかってはいない。

 

今でも、全く眠ることが出来ない人はこの世界に数名ほどいるそうだ。しかし、そのほとんどは後天的なもの。人生の三分の1を睡眠が占める人の人生。

眠らぬことはそのまま死を意味する。普通の人生より、長い人生となりえるが、それが幸せかどうかはわからない。

 

 

 

 

「眠ることが、私の幸せ」 with T,J

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2008年8月15日 (金)

00102 ~アラ・アブラハミン~

】【今日の名言】【

Ara_abrahamian  

 

「I don't care about this medal.
I wanted gold.」

"私はこんなメダルどうでもいいんだよ。"

「This will be my last match.
I wanted to take gold,
so I consider this Olympics a failure,」

"この試合は最後の試合になるだろう。
 私は金メダルしか望んでいなかった。
 私はこのオリンピックを失敗だと思っている。"

 

アラ・アブラハミアン (Ara Abrahamian、1975年7月25日-) スウェーデン出身。レスリング選手。2004年アテネオリンピックレスリング男子グレコローマンスタイル84キロ級・銀メダリスト、2008年北京オリンピックレスリング同階級・銅メダリスト。

 2008年北京オリンピックレスリング男子グレコローマンスタイル84キロ級の表彰式で、準決勝の判定を不服として首から銅メダルをはずし、マットの上に置いて立ち去ったときの一言。

 2004年アテネオリンピックレスリング男子グレコローマンスタイル84キロ級・銀メダリストのアブラハミアンは、準決勝でアンドレア・ミングッツィ(伊)に僅差の判定負け。「判定がまったくでたらめ。アンフェアだった」と激高し「試合はこれが最後」と即座に引退表明。「今回の五輪は失敗だ」とも吐き捨てた。

 前代未聞の事態に当惑した国際オリンピック委員会(IOC)はアブラハミアンの主張に基づき、国際レスリング連盟(FILA)と調査に乗り出す意向を示したが、相手のミングッツィは「勝者を称える儀式を台無しにしてくれた。スポーツマンシップを見せて結果を受け入れることが大切だ」と非難した。[銅いらねえ!メダル投げ捨てる/レスリング - スポーツ - SANSPO.COM]

ちょっとカッコイイ・・

 いろいろ言われたアンドレア・ミングッツィは、

「まったく持って不当だ
(totally unjustified.)
。」

「彼の行動は私のビクトリーセレモニーを台無しにしてしまった
(It did in a way spoil the victory ceremony for me,)
。」
「確かに、人は判定に疑問を持つことはありますが、スポーツにおいてスポーツマンシップを示して結果を受け入れることは大切です
(Certainly one can always question decisions made in the course of refereeing, but in sports it is appropriate to show sportsmanship and accept the results.)
。」

正に正論。

 

*2008年8月16日(土)
 国際オリンピック委員会(IOC)は、北京五輪のレスリング男子グレコローマンスタイル84キロ級(14日)の表彰式で、授与された銅メダルをマットに投げつけたアラ・アブラハミアンに対し、失格とメダルはく奪の処分を決めたと発表。尚、順位の繰り上げは行わない。

[
<五輪レスリング>銅メダルマットに投げつけ、はく奪処分(毎日新聞) - Yahoo!ニュース]

 

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「叫べ! 力続く限り!!」 with T,J

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2008年6月22日 (日)

00101 ~中川トミ~

】【今日の名言】【

Nakagawa_tomi  

「思わぬ長生きをした。いつ死んでもいい」

 

中川トミ(1906年10月6日-2006年10日11日午前6時30分) 熊本県熊本市城山半田出身。ブラジル日本人移住第1回笠戸丸移民781人最後の生存者。

亡くなる前、口癖のようになっていた言葉。実弟の結婚65周年パーティーの日も何度も繰り返していたという。

1908年6月18日、1歳8カ月のときに第1回ブラジル日本移民船「笠戸丸」で家族とともにブラジルに移住。子どものころから、家族を助けるために子守りや畑仕事を手伝い、ろくに学校にも行けなかったというトミさん。後年、移住当時のことを「私はほんとうによく働きました」と振り返っていたという。歌が大好きで、日本の歌をよく覚えており、いつも口ずさんでいた。

1993年、日本政府から勲六等瑞宝章を受章。

1997年、今上天皇陛下明仁さま、皇后陛下美智子さまと面会。「ブラジルに渡って来なかったらお会いすることはなかった」と感激したという。

2004年、ブラジル日本人移民の原点としてパラナ州の名誉州民。

2008年6月、プロミッソン市議会からも名誉市民章受賞(以前暮らしていた)

8人の子どもと30人の孫、30人の曾孫、そしてさらに1人の玄孫に恵まれた。亡くなる直前まで、日系社会のさまざまな行事にも参加し、元気な姿を見せていた。(亡くなった後、曾孫9人、玄孫2人生まれた。(2008年6月21日現在))

しかし、

2006年10月11日、老衰のため、ブラジル・パラナ州ロンドリーナ市の自宅で亡くなった。亡くなる数日前に100歳の誕生日を迎えたばかり。ロンドリーナの文化体育協会では、ブラジル日本人移住の原点であり、歴史の語り部でもあった中川さんの100歳の誕生日を盛大にお祝いしようと祝賀パーティーが予定されていた。

2008年6月22日午前(日本時間同日深夜)、ブラジル移民100周年を記念し、100年前の最初の移民船「笠戸丸」に乗船し、最後の生存者だった中川トミさんを記念した「トミ・ナカガワ公園」が開園した。

 

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「空が広く高いことを知るのには、

           実はけっこう時間がかかる」 with T,J

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2008年6月 4日 (水)

00100 ~Paul Potts~

】【今日の名言】【


<YouTube - Paul Potts Audition and final>

Paul_potts

「私にとって生まれてきた意味でもある

  歌に人生を捧げるのが私の夢だと。」

 

Paul Pottsポール・ポッツ,1970年10月13日-) イギリス・ブリストル出身。オペラ歌手。

 イギリスのオーディション番組「Britain's Got Talent」でジャコモ・プッチーニ(Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini, 1858年12月22日 - 1924年11月29日)作曲の歌劇『トゥーランドット(伊:Turandot)のアリア、『誰も寝てはならぬ(伊:Nessun dorma)を歌い優勝した。その出演の際のコメント。

 

~Profile~(bmgjapan.com

 10代のころから地元ブリストルの教会で歌い、16歳のころからオペラに心酔し、英国ITVの番組のカラオケ・コンテスト番組などに出演してオペラを歌唱。

 1999年に「Barrymore’s My Kind Of Music」という同じITVの番組に出演して、入賞賞金8000ポンド(当時の為替レートで約160万円)を獲得。その賞金と彼自身の貯金を使い、イタリアで本格的にオペラを学ぶ。

 1999年から2003年にかけて彼は無給で数々のオペラ・プロダクションに参加。

 その後、生活のために、数々の職業を経て、携帯電話のセールスマンをしながらチャレンジした同じITVの人気タレント発掘番組「Britain's Got Talent」に出演してオペラのアリアを歌い、その素晴らしい歌唱力をイル・ディーヴォの育ての親としても知られる審査員のサイモン・コーウェルに認められ、初代チャンピオンに選出され、念願のレコード・デビューのチャンスをつかむ。

 そして、サイモン・コーウェルがイル・ディーヴォをデビューさせた自身のレーベルであるSyco Musicと契約した彼は、パー・マグヌソン、デイヴィッド・クルーガー、スティーヴ・マックなど、イル・ディーヴォと同じ有名なプロデューサーを総動員して、デビュー・アルバムのレコーディングをスタート。

 そのアルバム『One Chance』は、7/23付けの全英アルバム・チャートで初登場NO.1に輝いて以降、8/5付けのチャートで3週連続のNO.1を獲得する大ベストセラーを記録している。

 “携帯電話のセールスマンがスターになった”という謳い文句で、全英だけでなく、ヨーロッパ各国でも大きな注目を集め、さらには「Britain's Got Talent」のアメリカン・ヴァージョンである「America's Got Talent」でも彼のことが紹介され、全米でも話題沸騰。

 9月の全米デビュー前に、すでに渡米し、NBCのテレビ番組などにも出演し、“携帯電話のセールスマンからオペラ歌手になった英国青年”という波瀾万丈のドラマチックな彼の半生とともに全米の注目を集め、アメリカでも人気沸騰中。オーストラリア、ニュージーランド、アジア各国でのデビューも決まり、もはや世界的な注目を集めている。

2008年1月から2月にかけて、早くも大規模な初の全英ツアーも決定!!

2008年6月5日OAのフジテレビ系「奇跡体験!アンビリバボー」で紹介されることが決定!!

ポール・ポッツの半生が映画化決定!!! プロデュースは辛口審査員兼番組総合プロデューサーのサイモン・コーウェル。)

 

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One Chance Music One Chance

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「無理歩く必要は無い。唯、立ち上がれれば良い。」 with T,J

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2008年4月20日 (日)

00099 ~オットー~

】【今日の名言】【

Otto_lilienthal  

 

「犠牲は払われなければならない」
(Opfer müssen gebracht werden)

 

オットー・リリエンタールOtto Lilienthal, 1848年5月23日 - 1896年8月10日) プロイセン(現ドイツ)出身、ユダヤ系ドイツ人。初期の航空工学(応用空気力学)の発展に貢献した航空パイオニアの1人。別名「ドイツの滑空王」「滑空機の父

1896年8月9日、飛行中に風にあおられてバランスを失い墜落し、脊椎を折った。翌日、48歳の若さで死去した際の最期の言葉。

ハンググライダーを作り、小高い丘から飛行する試験を繰り返したことで知られる。約7年間その飛行試験に従事し、実に2000回を超えると言われる、飛行を自らおこなった。また、18機種という多くの機体を試作し滑空した。

 

鳥の飛翔 Book 鳥の飛翔

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Otto_lilienthal  

 

「死を恐れぬ覚悟より、
 生き続ける覚悟の方が、価値がある。」 with T,J

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2008年1月23日 (水)

00098 ~TRICK劇場版~

】【今日の名言】【

Trick_movie1  

「 ア イ タ イ

 
 イ マ カ ラ

 
 シ ス ラ ナ

 
 テ @ ハ イ 」

 

トリック劇場版(2002年11月9日-200?年??月??日)

監督:堤幸彦 脚本:蒔田光治

発言(?)者:上田次郎(阿部寛)、山田奈緒子(仲間由紀恵)

作中で上田次郎(阿部寛)が山田奈緒子(仲間由紀恵)とコンタクトを取る為に、切り株に書いた文字(@の所は木の節目)。横から読むが山田奈緒子は縦で左から呼んで勘違いした。切り株には節目があり、そこに字が書けずうまい具合にこうなった。

日本映画。上映時間119分。テレビ朝日系列で放送されたテレビドラマ『トリック(TRICK(正確なロゴはKの文字が左右反転している))』の映画版。東宝日劇2系他で全国拡大公開された。公開1週間での映画興行成績、初登場ランク1位獲得。4年後には、二作目の映画版となる『トリック劇場版2』が制作された。

 

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Yamada_naoko  

Ueda_zirou  

Yamada_naokoueda_zirou  

 

「私は、コインの表にも、裏にもなりたくない。

コインのその表と裏の間、背の部分になりたい。」 with T,J

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2007年12月30日 (日)

00097 ~Atefah Sahaaleh~

】【今日の名言】【

Atefah_sahaaleh  

「She was my love, my heart...

(彼女は私の愛だった,命だった...)

I did everything for her,
everything I could.」

(私は彼女のためにあらゆることをしました、できるすべてを。)

Atefah Sahaaleh(1988年-2004年8月15日) インド・Neka出身。2004年8月15日、「純潔に対する犯罪」、婚外交渉による「姦通の罪」によって、22歳の既婚者として絞首刑に処されました(イランの絞首刑はクレーンくくりつけた縄の輪に首を通し、持ち上げて首を絞める法式)

彼女の父親がBBC NEWSに語った言葉。彼は、娘に別れの言葉すら言えなかった。(この国営新聞も22歳と偽って掲載されているが、裁判の際に彼女の年齢は証明されている。)

 

しかし真実は、彼女は16歳で、まして、結婚すらしておらず、さらに、年齢が約3倍以上の結婚をし、子供も居る。Ali Darabi(51歳)に数回にわたり性的暴行を受けていました。

彼女は13才の頃にパーティに出席した際、自動車の中で少年と2人きりでいたという理由で「道徳警察」によって「純潔に関する犯罪」で逮捕され、むち打ち100回と刑務所で短期間収容されました。

釈放後に、Ali Darabi(51歳)に数回にわたり性的暴行を受けたが、このことを家族などに隠していた。そして、「道徳警察」に捕まり、裁判となった。

そして、裁判となって、自らが性的暴行を受けたことを告白したが、女性より、男性(Ali Darabi(51歳))のほう意見ばかりが認められ、彼女の意見は認めてもらえなかった(イランの裁判でこの事を証明するのは難しい。これは、日本の刑事裁判の冤罪立証とほぼ同じ)

彼女は取り乱し、裁判長に向かって、ベールを取ってしまった。これが決定打となってしまった。その瞬間に彼女の死刑が決定したと言っても良い(イスラム社会において、女性が異性(夫、家族以外)に肌を見せることは最も恥じる行為)

51歳の男Ali Darabi)が16歳の少女に性的暴行をし、少女が死刑となったのだ。

ちなみに、Ali Darabi(51歳)は95回のむち打ち刑のみだった。

 

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Atefah_sahaaleh  

Ali_darabi  

 

「国の、社会の秩序は、何のために守るのか。

国民のため?子供達のため? それは絶対に違う。

只単に、昔からそうだったから。それが理由だ。」 with T,J

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2007年12月 8日 (土)

00095-00096 ~Abigail and Brittany ~

】【今日の名言】【

Abigail_abby_loraine_hensel_and_bri  

「分離なんてしたくないわ」
 by Brittany

「私たち、双頭の少女じゃないんだしね」
 by Abigail

  

アビゲイル・ロレーヌ・ヘンセル,ブタトニー・リー・ヘンセルAbigail Loraine Hensel(画像右) and Brittany Lee Hensel(画像左),1990年3月7日-) アメリカ合衆国・ミネソタ州出身。「二顔体」と呼ばれる結合性双生児の姉妹。決して、"双頭の少女"ではない。

取材に訪れた記者が、彼女たちに分離手術について聞いたときの返答。

なぜ、双頭ではないのか、彼女たちはそれぞれ背骨をもち、骨盤でつながっています。(骨盤を軸にV字型に背骨がある) またひとつの体のなかに胃は二つ、肺は四つあります。腕は二本ですが、生まれた時には二人の頭部の間にもう一本の腕がありました。しかしながらこの腕は発育も不充分で完全なものにはほど遠かったため、二人がまだ幼い頃に切断されました。 ほかに心臓は二つですが循環系は共有しています。共有している器官は、肝臓は一つ、腎臓は三つ、大腸小腸は一つずつ、性器、子宮、卵巣は一つずつです。

二人が生まれたときには医師から分離することも薦められたが、両親は悩んだ末にそれを拒否した。それは二人のうちどちらかが死ぬという避けがたい可能性が、もし、分離して両方が生存した場合でも、両者は片足と片手しか持たないため、何らかの補助器具を身につけて生きていくことは自明だったからである。しかし、両親の判断はおそらく正しかったといえる。二人は今、元気な身体で走ったり遊んだりすることに夢中で、アビーもブリタニーもこの両親の決断に感謝しているそうです。

二人はそれぞれお互いに気遣うことで身体上のバランスを得ています。ともに運動が好きな二人は、バレーボール、バスケットボール、キックボール、水泳、自転車を嗜み、また歌うことも好きです。

11歳のときから二人ともそれぞれ別に歯列矯正器を入れ、12歳のときに、二人は胸部の歪みから起こりうる呼吸困難を予防するため、セントポールにあるジレット特別小児病院(Gillette Children's Specialty Healthcare)で、小児科脊柱側湾症(scoliosis)の矯正手術を受けました。二人の手術は成功、更に3cm程身長を伸ばした。二人の神経系は共有される部分と分離している部分があり、走ったりピアノを弾いたりするときには共同作業となりますが、絵や字を書くときには別々の腕を使うそうです。(学校の成績・宿題は別々、教科書は共有。)

ひとつの体を共有していても、二人の服の趣味や味の好みは別々。そのため二人はそれぞれ異なった襟ぐりの服を着、アビーの好み、マスタードをたっぷりかけたホットドッグにブリトニーは顔を顰め、ブリタニーの大好きな林檎にアビーは顔を背けるといった次第です。

両親は、母が看護婦をしているパティ、父は造園家のマイクさん。下にはダコタとモーガンという二人の弟妹がいる。

現在、ルター私立高校に在学中の二人。2008年に卒業の予定。

 

Abigail_loraine_hensel  

Brittany_lee_hensel  

 

 

「N国の政府の主な仕事。大義名文並び立て、税金を増やし、無理矢理分盗り、助成金はどんどん減らし、金を懐に落とす。税金払えないヤツは非国民だから死んで良いと本気で思っている。国民のメディアに応じて政策考え、それ以外は無視。内輪揉め大好き。何時でも足を引っ張りあるが、実は裏で何をやるか決まってる。

たまに、国民が五月蝿く騒いだら、知らぬ存ぜぬ記憶に無いと言い張る。仕方が無く点前の為、責任を取ったかのようにして自ら辞職、そうすれば国民は殆ど馬鹿だからすぐに忘れる。退職金を大量に分盗り、天下りを繰り返す。死ぬまでに使い切れぬほど金を集めるが、子が居なければ平気で使い切る。

入りたての頃は、真っ白でも、2~3年であらゆる色を塗りたくられ真っ黒になる。だから、自信過剰の秀才か馬鹿しかなりたがらない。天才は国から出てA合衆国にみんな行く。

こんな政府に、こんな政治、こんな国に誰がした?」 With T,J

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2007年12月 7日 (金)

00094 ~生き返った死刑囚~

】【今日の名言】【

No_imger  

「既ニ法ニ従イ執行ハ

終ワッテイルノダカラ

天幸ニ依ッテ蘇生シタ者ヲ

再ビ執行スル理由ハ無イ

直チニ原籍ニ編入セヨ」

 

田中 藤作(1841(天保12)年-1898年(明治31年)) 石鐵県(現愛媛県)久米郡北方村(現東温市)出身。1872(明治5)年(当時31歳)に前年8月に起こった農民一揆(久万山・久米騒動)の首謀者の一人として死刑が宣告され、松山高石垣の監獄で絞首刑が執行される。遺体は家族に引き取られ家に運ばれたが、その後蘇生した。「生き返った死刑囚」。

蘇生後、家族からの届出で、県庁は前代未聞の事とて処置に窮し、司法省に伺い書を提出。司法省は更に太政官正院に伺いを立て、太政官が県に出した指令。

  • <蘇生した原因>
    当時の絞首台が不完全であった事(仮死状態になった可能性)と、松山から自宅まで18キロを荷車で運んだ衝撃(連続的な身体へのショック(=心臓マッサージ?))で蘇生したと思われる。
  • <現代における判例としての価値>
    現代の死刑執行方法が、太政官布告から発していることを思えば、判例は有効と思われるが法曹界や国会における論議は見当たらない。 現代の執行が医師の立会いの下、心臓停止後5分間経過するまで執行を継続するなど蘇生することはありえないと言う指摘もある。

藤作はその後、1898年(明治31年)まで生き、天寿を全うした(この頃の平均寿命は30代前半)。享年57歳。

ちなみに

絞首刑になり、絞首台から落とされても死なず、何度も落とされた者(1886(明治19)年3月20日,大阪中之島監獄分署での吉田梅吉の死刑執行は都合3回行われ絶命した)や昭和30年代頃(?)の絞首刑の際に、死刑囚の首にロープをかける刑務官の不手際で正しく首が絞まらず吊るされた瞬間に普通は意識を失うはずの死刑囚が延々ともがき苦しみ時間が過ぎても死に至らなかったためやむなく死刑囚の身体を床に降ろし、刑務官が柔道の絞め技で留めをさしたと大塚公子さん著の「死刑執行人の苦悩」(角川文庫)に元刑務官の話として載っている。

 

Book 死刑執行人の苦悩

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元刑務官が明かす死刑のすべて Book 元刑務官が明かす死刑のすべて

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図説死刑全書完全版 Book 図説死刑全書完全版

著者:マルタン モネスティエ
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Photo  

 

 

「死は生への活力源」 with T,J

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2007年12月 3日 (月)

00093 ~ミリン・ダヨ~

】【今日の名言】【

Mirin_dajo  

「不死身の身体であることに気づいたから」

 

Mirin Dajoミリン・ダヨ本名:アーノルド・ヘンスケンズ,1912年-1948年5月25・26日) オランダ・ロッテルダム出身。正に不死身。医者も科学者も理解が出来ず、身体に刺さった剣は臓器を貫き、レントゲンで確認されたが、彼はまったく傷つかなかった。『奇蹟の男(Miracle Man)』と呼ばれた。

彼がすべてを置いて、新天地に赴いたきっかけ。

 彼という"現象"が、今から60年程前、スイスとオランダというごく局所的な地域で起きた、たった二年余りの”出来事”。1947年当時、彼の存在は"第二の救世主"などとしてメディアに大々的に報じられたが、それは極めて限られた範囲での話題だった。

 

 1947年6月23日、米タイムス紙上に奇妙な記事は次のようにはじまる。

「苦難の時、"奇蹟の男"は兆しと驚きを示すため、メッセージを携えてやってくる。先週から、スイスのチューリッヒは"奇蹟の男"の話題で持ちきりだ。毎晩毎晩、コルソにある町一番の音楽ホールでは、35歳のオランダ人が観衆たちを魅了しているのだ。男の名はミリン・ダヨ。その奇蹟の男は毎晩ステージの上に立ち、剣やら槍を、生きたまま胸に突き立てているというのだ!」

「”私は芸術家ではない。預言者である。神を信じるのならば、自分の身体を支配することが出来る。はじめは誰も私の言葉を信じようとしないが、この不死身の身体を見て、人々は私の言葉を信じるのだ。”そう語るダヨのショーは、大成功を納めているようだ。しかし問題もある。それは代金を支払う前に卒倒してしまう観客が絶えないことだ。」

 

当時、ダヨのパフォーマンスを目の当たりにした目撃者の一人は、ダヨの事を次のように回想する。

「ミリン・ダヨは上半身裸のまま、部屋の真ん中に静かに立っていた。すると彼の後ろに立っていた助手がダヨの背後に近寄って、力任せに背中へ剣を突き立てた。丁度彼の腎臓のあたりだった。みんなただ息を飲んだ。実験に経ちあった医師も、生徒たちも、ただ口をポカンと空けていた。疑いようもなく、確かに長さ80cmの剣(フェンシング用のフルーレ)が、彼の背中から突き刺さっていたんだ。その先端は手幅より長く、彼の胸から突き出していた!でも血は一滴も流れていなかった。実験に立ちあった医師たちもこんなことは一度も見たことがない、という様子だった…。」

 

ジャン・ダーク・ドゥ・グルート(ダヨの最初の助手)によれば、ダヨには常に、三人もしくはそれ以上の"ガーディアン・エンジェル(守護霊的な天使)"がついていたという。そしてダヨが何かに直面するたび、彼らガーディアン・エンジェルたちがダヨに助言や指令を与えていたというのだった。しかしその指令は、普通の人には到底理解できないものだったという。さらに、ダヨは不死身の身体を持っていただけでなく、遠隔視の能力や、他者を治癒する能力さえ持っていたという。

 

そして、

 1948年5月11日のこと、ダヨはスイスの自宅で、いつものように"彼らの声"を聞いた。声は彼に、鉄の釘を食べるよう命じたのだった。そして"彼ら"はその修行に医師も立ち会わせ、麻酔をかけずに、その釘を取り除いてもらうよう指示したという。常人にはまるで理解し難いが、ダヨは迷うことなく、言われた通りに釘を食べた。しかし、それから二日後、医師は体内の釘を確認したが、ダヨの意に逆らい、麻酔をかけて釘を除去したのだった。

それから約10日後のことだった。グルートは家族をスイスに迎えるため空港に向かい、ダヨの家に帰宅すると、ダヨはベッドに伏していた。グルートは、ダヨがしばし、こうした姿で瞑想を行っていたり、体外離脱していたことを知っていたから、脈があることだけを確かめ、ダヨをそっとしておくことにした。翌日、グルートがダヨの様子を見に来ると、まだ彼はベッドに伏したままだった。既に恍惚としたトランス状態ではなかったが、彼はまだ呼吸をし、脈もあった。しかし第三日目、グルートが様子を見に来ると、ダヨは既に息を引き取っていたのである。それは1948年5月26日のことだった。後の調査によれば、ダヨが死亡したのは、グルートが様子を見に訪れた、12時間前であったという。

検死が行われた結果、ダヨは大動脈の破裂で死亡していたことが明らかにされた。警察も調査に乗り出し、修業に関与したグルートと医師は取り調べを受けたが、ダヨもグルートもオランダ国籍であり、修行はダヨ自身が望んで行った事であったため、起訴は免れた。

 

奇跡の人、ミリン・ダヨ。彼自身、平和のメッセージを伝えるための使者であることを自覚していた。なぜ、どうしてよりも、人がわからない、理解が難しい。現象。確率論でも示すことが出来ない事こそが奇跡であり、それを成せることができる存在こそが・・・、いや、やめておく。彼は人だ。彼そのものが特別なのでない。ただ、選ばれただけと、私は思う。

 

Mirin_dajo  

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「本当の奇跡に人は恐怖する。」 with T,J

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